臼井雅美研究室 - シューベルト論文と演奏 -

 

時のしばしの戯れに - 18世紀の「演奏」とシューベルト -

昨日は Schubert の B dur Sonate が演奏されました(注1)

演奏は本来或る作品が伝えようとする、いわゆる内容を表すべきものであり、作品そのものがどのようなものであるのか、といういわば作品論と切り離して考えることのできないものであります。そのため今日は、昨日、B dur Sonate が何故あのような響きとして演奏されるに至ったのかについて Schubert の作品の様式と、18世紀的演奏の様式と、この二つの流れ、問題をあわせ捉えながら B dur Sonate に表れている Schubert の表現上の特徴についてご説明します。

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まず、Franz Schubert の作品を年代順に追って見てゆきますと幾つかの特徴的な表現法が目につきます。例えは休符の使い方に独特なものがあるということもそのひとつで、ここではまずこの休符の使い方に注目して Schubert の表そうとしたものを捉えてみます。

もともと休符には幾つかの機能がありますが、その中でも音楽が休止するごく一般的な意味での「休み」に対して、より積極的な意味での表現法の一要素として時々「無」の状態を表現して独特の役割を果たすことがあります。これはバロック時代から修辞法の中で用いられてきた技法で、いわゆる「無」、もしくは「無」に相当するものを表すべく「Aposiopesis (アポジオペシス)」と呼ばれて或る特殊な表現効果を担う音型 Figur のひとつとして用いられて来たものです。

このFigurの用い方にもいろいろな例が見られますが、これをいまピアノ曲にあてはめてみた場合に左手の伴奏は鳴っているのに右手だけか一時的に休止する、ごく一般的な「休み」の状態を aposiopesis と呼ぶのではなく、右手も左手もあわせて突然のように音楽が「無」に陥るその瞬間の表現法を指すわけです。

よく知られていますように、ルネサンスにおける古代ギリシア・ローマの修辞法、文学上の表現に関する研究が音楽表現にも影響を与え、特にバロック時代には Figur と呼ばれる特殊な表現法が用いられるようになりました。この Figur と呼はれるものは、特定の内容を表すために特定の表現法を用いる作曲法で、ドイツでは17世紀に作曲家 Schütz の弟子の Bernhard の手によって理論的に体系づけられたものがよく知られています。aposiopesis もその Figur のひとつで、これにも幾つかの用いられ方がみられますが、ここでははじめに Schütz の作品『十字架上の七言』の最後で、十字架上のイエスが息をひきとって亡くなる「死」のとき、もしくは死の「深い沈黙」を表した例と、次に Joh. Seb. Bach の『マタイ伝による受難曲』の中でキリストの受難をめぐって全世界が怒り悲しんで一瞬の沈黙に陥った状態と、あわせて神の永遠の沈黙を表した aposiopesis の例をあげておきます[譜例1, 譜例2. 何れも矢印の全休符が aposiopesis です]。

譜例1. シュッツ: 『十字架上の七言』SWV478より 第3曲「七言」終結部

出典: 自作

譜例2. バッハ: 『マタイ受難曲』より 27b. "Sind Blitze, sind Donner in Wolken verschwunden ?" 40小節目

出典: Holograph manuscript, 1743-46 [http://www.imslp.org/]

Schubert も幾つかのソナタの中でこうした Figur としての aposiopesis を使用していますが、その使い方には二通りあると考えられます。何故かといいますと、1823年の D784 のソナタあたりからその使われ方に変化が見られるからであり、さらにそこを境に、その前の時代は学習時代に教育を通じて習得した、いわば型通りのものとして、それ以降はそれとは違った、より創造的な表現の担い手としてこの Figur・aposiopesis を使用しはじめたといえるからです[譜例3は1817年作の D575-IV, 譜例4は D960-I。矢印のところがいま間題にされた休符です]。

譜例3. シューベルト: ピアノ・ソナタ第9番ロ長調 D.575より 第4楽章 116小節目~

出典: Franz Schubert's Werke, Serie X, No.5 (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1888. Plate F.S. 97.) [http://www.imslp.org/]

譜例4: シューベルト: ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調 D.960より 第1楽章 冒頭

出典: Franz Schubert's Werke, Serie X, No.15 (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1888. Plate F.S. 107.) [http://www.imslp.org/]

この二曲を比較した場合に、D960の方が、後にふれます Schubert のこの時期の修辞的表現法と一体をなしてその沈黙の意味を深くしているのは明らかです。ゆったりと歌われ流れてゆくテーマに遠くはるかな響き、何か怖ろしい崇高なものを伝える左手の深いトリラーの中で突然に訪れる aposiopesis による「死」の瞬間は明白に響いているからです。

このような突然の沈黙の訪れ、古代ギリシアで用いられていました表現でいえば「カイロス」に相当する"とき"は、リタルダンドをかけたりしますと何の効果もあげることなく終わってしまいます。このことは Schubert と同じく修辞学的作曲法を用いた Brahms の作品にもあてはまることで、曲は Brahms の Op.76-1 の第1曲目、楽譜の矢印のところの休符が aposiopesis になります[譜例5参照]。当然のことですが、ここでもその直前の部分にはリタルダンドをかけずに演奏するのが望ましいことになります。

譜例5. ブラームス: 8つの作品 Op.76より 第1曲(Capriccio)嬰ヘ短調 10小節目~

出典: Klavierwerke, Band II (Leipzig: C.F. Peters, No.3300b, n.d.(ca.1910). Plate 9488.) [http://www.imslp.org/]

ところでこうした例は修辞学的作曲法と呼ばれる17・18世紀の伝統に基づく作品の要求する響きが実際の演奏法を規定していたことのひとつの例でもありますが、Schubert の場合にはなおこれに彼自身の生き方や、彼のおかれていた環境との関わり合いの問題も加わって複雑な様相を呈しています。

つまり、同一の表現手法の用い方そのものと、それによってその表現方法そのものの意味が変わる場合、その変化を結果させる何か大きな出来事、原因があり、それが作曲家の内面に働きかけると考えられるわけです。そのような出来事と Schubert その人、あるいは彼の音楽との関連について検討してみた場合に、先にふれましたように1823年頃に明らかな変化が認められるわけです。その変化は、大体次のような経過をとります。

まず1820年に酒場で"自由主義会合"を開いたという容疑で Schubert の友人 Senn が逮捕され、Schubert も拘留されました。幸いなことに Schubert はすぐに釈放されましたが、Senn は十四ヶ月拘留され、「危険人物」とされました。しかし Schubert は Senn との交わりを持ち続け、彼の詩に基づいたリートを作曲しています。それからもうひとつ、1823年に"不治の病"に冒されはじめます。そしてその病が Schubert の精神に強く影を落としたことが1824年3月31日の J. Kupelwieser あての手紙に明らかに読みとれます[資料1参照](注2)

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資料1. 『シューベルトの手紙』より「シューベルトよりレオポルド・クーベルウィーザーへ」

この手紙は当時、ドイツ系文化人のたまり場でもありましたローマのカフェ・グレコ気付で認められたもので自己の病と何か異境の地、憧れの地への思いがゲーテの『ファウスト』からとられた詩「私の安らぎは去り、私の心は重く、二度と再び安らぎを見いだすことがない」というグレートヒェンのことばに託す形で書き記されています。

それからさらに「私の夢」というタイトルの Schubert その人の日記があります。これは先ほどの資料1でとりあげました『シューベルトの手紙』の中に訳されているものですが、こちらも矢印のところを取り上げます[資料2参照]。ここで興味深いのは、引用資料の中に二回、92頁と93頁に「愛の苦しみ」によって「引き裂かれた」という記述が見られる点です。この言葉は、この手紙か告げています父親との関係においての Schubert の心を直接表現したものと考えられます。この日記では内容が抽象化されていますが、彼の父親は Schubert が音楽家になるのに反対して教職について欲しいと願っていましたので、父と子の断絶を Schubert が感じていたことを証明する記述です。

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資料2. 『シューベルトの手紙』より「52. シューベルト自作の寓話的物語 1822年7月3日」

そして同じく93頁、この日記の最後の方にもうひとつ矢印をつけましたが、ここの場面は明らかに この世界を超えた世界を描写しています。しかも超越的世界では永遠の幸福が感じられ、父と子も手をとり合って泣いて解り合えたというのです。

これらの手紙から、Schubert の中に絶えず現実の世界での理想的な存在状況への期待が強くあったことが感じられます。しかし、その理想の達成の不可能なことから絶望させられ、その絶望によってこの世界や、人間存在をこの現実の世界から引き離して永遠の安らぎの世界へと導く「死」を超えた天上の世界への憧れか深められ、しかもこの二つの状況が交差し、その精神に深い陰影をつけていたと思われるのです。こうした世界観はSchubertの時代に、フランス革命前後の政治情勢の中で多くの人によって捉えられていたと考えられます。

例えば Schubert のごく身近にいた Beethoven がその典型としてあげられますが、Schubert の場合にはこうした精神状況の中でも特に「死」によってもたらされる、いわば「あきらめ」、諦念へと彼を導いていった面が強かったと考えられます。Schubert と「死」による締念については改めてふれなければなりませんが、あわせてここで指摘しておいた方がよいと思われますのは、このような「死」と人間の存在の関係については古代ギリシア・ローマ時代からいわゆるストア哲学の特色をなす問題として知られてきたものであり、ヨーロッパ芸術の中でも好んで表現されたテーマのひとつでもあったということです。ともかくも、このような「死」を超越した世界への想念が D784 のソナタ以降の aposiopesis を一例として、幾つかの表現技法を通して Schubert の作品の中に表現されたと考えられるわけです。

なお、aposiopesis その他の表現法は後にも改めてふれますが、ここでは、その aposiopesis によって表現された問題を考えるためのひとつの方法、前提として、Schubert の響きを捉えるために18世紀の奏法とそれによるピアノの響き、音楽の響きをまず問題にしてみます。

18世紀の音楽における体系の根底をながれるものはルネサンスから形成された音楽修辞学です。しかし19世紀になりますとこのような、人間の思想に対応して形成された「思想の具体化」の方法としての音楽の体系が変わります。つまり新しい時代相、新しい思想の体系の成立に伴って音楽表現に関する体系もまた異なるものとなるのですが、そのような新しい思想の体系を作ったものがプラトンのイデア論を基にしたロマン主義ですので、19世紀に形成された音楽表現法から18世紀の体系を捉えるのは難しく、ときに不可能にさえなります。さらに私たちの生きている20世紀にはまた別の体系が流れており、私たちの尺度で18世紀の音楽を捉えると、18世紀の中に流れる本質はしばしば何の意味ももたなくなります。つまり私達の時代の体系のものさしで、あるいは19世紀のものさしで18世紀を捉えると18世紀は時に無意味な、わけのわからない時代になってしまうのです。それは、音楽で用いられる音符は或る作品の中でひとつの意味を担っているものであり、その音符の集合によってひとつの体系が形成され、響きの法則によって秩序づけられた全体像、つまり「作品」は形作られるにもかかわらず、この音符はそこでの意味とは無関係に各時代のものさしの尺度で測られ得るものでもあるからです。それで私達の時代のものさしや19世紀の尺度で測りますと、18世紀の芸術は〈秩序づけられていない意味不明な世界〉(注3)になってしまい、楽譜の解読といいますか、本来の作品に即して追求されるべき意味を解読することがほとんど不可能になってしまうわけなのです。

従って或る視点から秩序づけてある体系を捉えようとした場合、その視点に立つこと、つまりいま Schubert の世界像・その響きの世界を捉えるためには、これを支えた18世紀の体系が形成されたその世界観に立ち戻って考えなければならなくなるのです。

私たちにとって18世紀の音楽体系を捉える手がかりの第一はその時代の作曲家の遺してくれた楽譜にあります。この楽譜を読むときに、つまりその時代の思想体系を調べる必要があります。何故なら音楽、あるいは作曲家が他者に伝達しようとする思想を表そうとする場合に用いる音符は、楽典的な意味では各時代に共通の記号ではあっても、それがひとつの思想体系に組み込まれることによって、その機能を変化させることになるからです。その体系に組み込まれている音符を用いて表された音楽としての思想の体系、つまり具体的にはひとつの作品の響きの意味を読みとるためには先程から問題にしているその作品の生まれた時代の思想体系からこれを読み解いてゆかねばならないのです。

その楽譜を私たち20世紀の体系の尺度で読むか、または歴史か生んだ個々の時代に還って読むかによって私たちの中に全く異なった響き、音楽ができてしまいます。従って常に正確な、正しい音楽を求めるのであれば、このような思想に基づいて楽譜を読まねばならないのです。そして音楽というものは常に私たちの前に提示されます楽譜を正確に読んだ結果が響きに表されますので、その響きの再現者、つまり演奏者もこれまで述べてきたような内容に従って楽譜を捉える必要があるのです。当然のことながら演奏者は自分自身の考えや感情を表現する役割を担っているのではなく、或る作曲家が聴き取った音楽を、そしてそれが書き表された楽語を正確に捉え、他者に正確に伝える義務があります。しかもこのような義務こそが、18世紀の演奏に求められた「正しい演奏」でもあったのです。例えば Quantz は『フルート奏法試論』の中で、「聴衆は多くのよい音楽を聞いたり経験豊かで誠実で学のある音楽家が下した判断によって知識を得る」(注4)、「音楽を判定するに当たって合理的かつ公正であろうとするならば、特に三つの観点すなわち曲そのもの、曲の演奏者、および聴衆に常に目を向けなければならない。よい作品であっても、悪い演奏をすると駄目になってしまうこともあり得るし、悪い作品でも演奏者次第で良くなることもあり得る」(注5)といっています。このような Quantz の著作に見られる意見は18世紀の他の偉大な芸術家達によっても提唱されたもので、C. Ph. E. Bach の『クラヴィーアを奏するための正しい技に関する試論(クラヴィーア奏法試論)』にも良い演奏を成立させるものは、「歌い、また弾くことによって楽想をその真の内容、情緒(アフェクト)に即して聞かせる能力」(注6)であると書かれています。また L. Mozart も『ヴァイオリンの基礎教程に関する試論(ヴァイオリン奏法)』(注7)の中で同様に、「優れたヴァイオリンは種々の作曲家の好み、考え方、そして発想、表情などでも理解でき、すぐに正しい解釈ができることだ」と書いています。またそれに対して悪い演奏者のことは、「自分の気まぐれに応じて演奏し、演奏形式を思いのままに、また自分の腕に都合のいいようにアレンジする」(注8)と書いています。これらのことからも「演奏する」ということは正しく楽譜を読み、正確に表現に結びつけることなのだということが明らかになります。

もっとも楽譜を正しく読むといっても実に多種多様な問題が横たわっているのも事実であり、私達に遺された楽語そのものを、ひとつの歴史的資料として扱う場合に要求される豊かな知識もその問題を解くために必要とされる前提のひとつに数えられます。そうした問題を全面的に捉えるのはここでは不可能ですので、とりあえず、実際に正しく楽譜を読みとるための手段のひとつである Tempo を例にとって考えてみます。

或る曲からもっとも適した Tempo を見つけだすための方法について、C. Czerny は19世紀はじめ、1839年6月にまとめた『ピアノ奏法』(注9)の中で Tempo について、作品の性格、Charakter によってこれを割り出すことができると書いています。まずこの問題について考えてみます。

作品にはしばしば作曲家によっていわゆる Tempo の指示が与えられますが、この Tempo 指示そのものに、既に先に触れた18世紀の忘れられた体系の問題が絡んでいます。

いま一例をあげてポピュラーな指示用語のひとつである Allegro を問題にしてみますと、今日のように単に「速い」ということが意味されるのとは大きく異なって実に多様な表現がこの単語には与えられていたことが Czerny の説明で明らかになります。Czerny のいうのは Allegro の次のような広範な意味です(注10)

  • 静安、穏和、甘美。
  • 深遠、もしくは心酔。
  • 憂鬱、もしくは調和しながらも見せる錯綜。
  • 荘厳、雄大かつ崇高。
  • 華麗、であるとはいえ流暢であるための過度の動きは求められない。
  • かろやか、晴れやかにして諧謔に
  • 迅速かつ決然と。
  • 情熱を込めて動く、か、もしくは幻想的かつ軽妙。
  • 吹き荒さぶ嵐のように速く、真面目なもののときにも喜ばしい感情のときにも。この場合、概してブリランテの効果も計算されている。
  • きわめて荒々しく、興奮しかつ奔放に、もしくは猛り狂ってfurios。

以上の異なった特徴が Allegro によって表されていますので、同じ Allegro と表示された曲でもその曲の Charakter を可能な限り正確に見極めた上で先のa)~j)の何れかの意味に結びつけ、Tempo を決めてゆくことが大切になります。

では実際に Allegro と指示された曲を取り上げてどのような Tempo になるのか、またその Tempo からどのような響き= Charakter が聴かれるのかを実際に示してみます。例は Schubert のソナタ D960 の第3・4楽章です。譜例6が第3楽章の楽譜です。「Scherzo」と表示され、さらに「Allegro vivace con delicatezza」と指定されています。そこでまず、「Scherzo」の Tempo を判断しなければなりません。「Scherzo」は舞曲として Waltz にも対応させることができますが、Czerny が譜例で Waltz の Tempo の一例をメトロノーム M.M. で表示してくれました。譜例7です。これによると付点2分音符 = M.M. 88 になっていますので1小節が88の速さでということになります。また次にCzernyの30番のエチュードの Allegro Scherzando は付点4分音符 = M.M. 60 になっています[譜例8]。いずれにしてもかなり速い Tempo が要求されます。

譜例6. シューベルト: ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調 D.960より 第3楽章 冒頭

出典: Franz Schubert's Werke, Serie X, No.15 (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1888. Plate F.S. 107.) [http://www.imslp.org/]

譜例7. C. Czerny: Ein Stuck für Klavier

譜例8. チェルニー: 技法のエチュード(30番) Op.849 より 第19曲変ロ長調 冒頭

出典: Leipzig, C.F. Peters, n.d. (ca.1892). Plate 7765. (#227627: reissue) [http://www.imslp.org/]

一方、このような Czerny の Tempo 感は Beethoven が残した M.M. 速度とも一致していると判断されます。例えば Beethoven 自身が自らの交響曲に付した M.M. で Scherzo の一例を拾うと、Schubert の後期ソナタと時期的に近い第九交響曲第2楽章は付点2分音符 = M.M. 116 ですし、これより少し前に作曲されたソナタ Op.106 の第1楽章 Allegro は2分音符 = M.M. 138 です。従って、このような Allegro もしくはこうした例えば Scherzo での速いTempoが18世紀当時の Tempo 感のひとつであったと考えられますが、あわせて、こうした18世紀 Tempo で演奏した場合にCD等で聴かれる演奏にも共通した特色としてあげられるのが響きの「かろやかさ」であると思われます。これには、18世紀に用いられていた楽器の構造や機能そのものも関係していますが、それでも現在のピアノで弾いても響きの全体が「かろやか」になるといえます。このことは、古楽器によるそれではなく、モダンの楽器を用いている一般のオーケストラのひとつ、スイスのトンハレによる Beethoven の交響曲演奏にも明らかです(注11)

ともかく、このような例から Scherzo・Allegro を先ほどの Czerny のいう Allegro の内容a)~j)にあてはめてみると、f)が最もふさわしいといえます。

次に、Schubert が「Scherzo」の後に付した「Allegro vivace con delicatezza」に着目しますと、ここにはまず Vivace がついています。これに関しては Koch の ”Musikalische Lexikon” 1802で調べます[資料3参照](注12)。Koch によれば Vivace はつまり「生き生きと、晴れやかな動き。また同じく生き生きとした軽やかに流れてゆく演奏」ということになります。それからさらに Vivace に加えての con delicatezza ですが、これは1835年の『音楽百科辞典』で調べることができます[資料4参照](注13)。それによれば Delicatezza は「甘美な、繊細な演奏が要求される。ひとつひとつの音の明晰で正確なイントネーションによって、またこのような音のひびきと様々なニュアンスをもつアクセントを結びつけることによってこのような表現は成立する。あまり大きな音とは相反する」として捉えられます。これら Vivace・Delicatezza の意味に先ほどの「Scherzo」の Charakter を加えて考えた場合、第3楽章の Tempo は相当に速い Allegro になることが判断できます。また、かろやかに、繊細に、飛翔してゆくような響きで演奏するのが良いと考えることができます[響きの実際例として Scherzo (演奏3)の演奏]。次にもう一方の Allegro と指示されている第4楽章ですが、こちらは Allegro の後に ma non Troppo とついています[譜例9参照]。これは「あまりはなはだしくなく」という意味ですが、楽章全体の表現のことを指していると思われますので、Tempo も「迅速に」とか「非常に激しく」ということはあてはまらないと思われます。また、「堂々と」という意味もこの楽章の響きにはふさわしくはないと思われますので、Czerny の Allegro 項目の中ではe)に一番近いと思います。適当な速さ、適当な響きが要求されると思いますので出だしの右手のコミカルなモティーフが巧みに表現できる Tempo を割り出せば良いといえます。もし、これが「迅速な」という Tempo で演奏されたら、聴衆は息が詰まってしまうことでしよう。出だしの右手のモティーフには譜例10のようなスラーがついていますのでこのスラーをやわらかな、軽い響きで表現すると Charakter が良く表されて来ます。そのためにも第3楽章の速くて軽くて繊細に飛翔するような Allegro とは違った Allegro をこの第4楽章では表現しなければならないことになります。なお、この楽章の Charakter については後で再びとりあげますが、基本的には Schubert の思想の中核にあったと考えられます人間の生涯をドラマの舞台にたとえる考え方に根ざしていると思われます[Tempo、響きの実際例として演奏4を参照]。

3. Scherzo, Allegro vivace con delicatezza - Trio

4. Allegro ma non troppo - Presto

資料3. H. Chr. Koch: "Musikalisches Lexicon" より「Vivace」の項

資料4. Encyclopädie der gesammten musikalischen Wissenschaften より「Delicate」の項

譜例9. シューベルト: ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調 D.960より 第4楽章 冒頭

出典: Franz Schubert's Werke, Serie X, No.15 (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1888. Plate F.S. 107.) [http://www.imslp.org/]

譜例10.

今度はゆっくりの Tempo の種類を考えてみます。

Adagio、Largo などがそれにあてはまりますが、Czerny は Adagio でも同様に作品の Charakter に注意して Tempo を決めてゆくように書いています。そしてもうひとつ大切なことは、このゆっくりの Tempo の場合は使われている音価に着目して Tempo を割り出すということです[資料5参照]。先にも引用しました C. Ph. E. Bach の『正しいクラヴィーア奏法』によると、Tempo というのはつまり曲の中の一番細かい音符、最小音価の音符で決めるのが良いというのですが、この考え方はそのまま Czerny にも受けつがれています。それでこの Adagio、Largo の中で考えたときに、その中の一番細かい音符による音型がひとつの流れをもって演奏されるべきですので、Adagio や Largo を余りにも遅い Tempo で演奏すると、流れがこわされ、メロディやモティーフの性格も浮かび上がらないおそれがあると思われます。この点は実際に演奏で確認してみるのがよいと思います。例として Chopin の「前奏曲集」 0p.28 からその4番の小品を用意しました[譜例11参照]。

資料5. 『チェルニー音楽を語る - ピアノ奏法 -』より

譜例11. ショパン: 前奏曲集 Op.28より 第4曲ホ短調

出典: Friedrich Chopin's Werke. Band VI (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1878. Plate C. VI. 1-24) [http://www.imslp.org/]

この曲には Largo の指示があります。Largo を、これも先の Koch の音楽百科で調べます[資料6参照]。Koch によれば Largo は「本来は幅広く、もしくはひきのばされた一般的には速度のゆっくりのものをこの言葉で指す。その場合に荘重な緩徐性を表現する、壮麗な緩徐性を表す感情にのみ適応し得る」ということになります。一方、楽譜を見ますと、左手の和音が8分音符で最初から最後の方に至るまで刻まれ、和声も刻々と変化してゆきます。それに対してメロディは譜例12のようなリズムを持っています。従ってこのリズムがくっきり浮かび、なおかつ左手の和声の変化がひとつの流れの中で軽やかに響き捉えられる Tempo を割り出さなければならないと思いますので、もしもこれがきわめて遅い Tempo で弾かれたときには、左手の流れも右手のモティーフもどちらも各々にその Charakter を表すのが不可能になってしまいます。またこの Tempo ではすべての部分にペダルも必要になるので、左手も右手も響きが過剰になり、何の表現も出てこなくなります[実際例として Op.28-4 演奏。ただしペダルは Chopin が書いたところのみ踏んで少し左手に流れをもたせる Tempo で演奏]。実際の演奏に際しては、左手の和声の変化と右手のモティーフが互いに浮かび上がりながらも巧く調和した響きが出せる Tempo をとると曲の性格が表現でき、同時に Largo の意味する荘重な緩徐性にも一致します。具体的には右手のメロディを Largo で悲しく歌い、従って左手の刻みはかなり速い Tempo になるのがよい Tempo であるといえます。今日は Largo を使いましたが、同しく緩徐を指す Adagio の場合でも同様に考えることはできますし、繰り返して指摘すれば、Tempo はいつも曲の性格(Charakter)が正しく表現できる速さを、それぞれの楽譜にとって決めていかなければならないということは明らかです。なお先ほど Schubert の第3楽章のところで Czerny が Waltz のテンポをメトロノーム数字で出していることに触れましたが、Czerny は他のいくつかの Tempo 用語にもメトロノーム数字を添えていますのでこれも参考になります。念のために各 Tempo の数値をあげておきます(図3)。何れも相当に速い Tempo です。

資料6. H. Chr. Koch: "Musikalisches Lexicon" より「Largo」の項

譜例12.

図3. Czernyの記述に見られる Tempo 用語とメトロノーム数字の対応

このような Tempo 問題は本来、はじめに触れたように、「楽譜、表現の体系」の「読み方」の問題の枠内で捉えられるべきものでしたので、次に以上のような Tempo と Charakter の関係について18世紀の資料を用いながら別の角度から照明を当てます。調的性格論と Tempo の関係です。ここではその一例として f moll を例にとりあげて考えます。Kelletat の著作にまとめられた調的性格論から f moll の項目を引きますと次の意味が記されています。「マッテソンは f moll を指して、静けさをたたえているがその中に同じようにおそらく何か絶望のようなものと共存する深く重い「死」に至るような心の不安を表すと考えられる、そして激しく揺れ動いている。それは救いようもないメランコリーを美しく表す」(注14)

次に、例に曲をとりあげて響きて捉えます。Bach のプレリュード f moll BWV857 です[譜例13参照]。これは多少の絶望が共存した深く、穏やかでおちついた輝きというところにぴったりあてはまる曲ですので Tempo はその深く穏やかな絶望を表現するためにそれほど速くはなりません。出だしの4分音符が絶望を表現できる少しゆっくりめの Tempo をとるのがふさわしいと思われます(参考曲演奏)。以上のように調性という角度からも曲の Charakter を捉えることかできますが、これが先に触れました Tempo の相違をもたらす用語の問題とも重なって来るのです。

(クリックすると拡大できます)

譜例13. バッハ: 平均律クラヴィーア曲集第1巻より ヘ短調プレリュード BWM857

出典: Veb Deutscher Verlag für Musik Leipzig (Bestell-Nr.157, Einband H.S.Sanders, Gesamtherstellung von C.G.Röder, Leipzig III/18/2-13365, Lizenz-Nr.418-515/C 504/65)

一方、或る楽曲の Tempo は、その曲の流れを構成する韻律とも関わっています。本来言葉に内在する、言葉か響き発音されるときの長短や強弱、高低のアクセントに基づいたリズムのことを指しますが、その言葉の韻律を手がかりに楽譜を読み演奏することによって音楽の流れを捉えることができます。例えば Schubert の D960 の第1楽章のはじめのテーマを例にとりますと、譜例14にあるようなイアンボスの流れが浮かび上がります。また、先ほど Tempo のときに例にとりあげました Chopin の Op.28-4 をもう一度とりあげて今度は韻律に基づいて譜面を捉えますとこれも Schubert に同じくイアンボスであることがわかります。

譜例14.

実は先ほどの演奏のときにもこの韻律のリズムによってメロディを歌ったのですが、このイアンボスによる演奏は、この曲の場合、遅い Tempo では不可能になります。左手の軽やかな和声にのせて右手のメロディの4拍目をおくらせ、というか次の拍へのアウフタクトとして、次の拍にかかるように弾いて次の付点2分音符をたっぷり歌えばよいのです。このように歌うと右手のメロディは自然に Forte に近くなり、Czerny がピアノ奏法で述べていることとも一致します[資料7参照]。また、このように歌うと右手のリズム、イアンボスはメロディの流れが作り出す「ため息」のリズムにも合致するものであることが判ります。そしてこのことは、この曲の e moll の調的性格論にも一致します。もう一度 Kelletat の資料を引用して e moll の部分を読みます。

18世紀の理論家のシューバルトが C dur と関連づけて述べたことによると、素朴で女性的で、無垢な愛の話、声も出ない嘆き、ひとしずくふたしずくの涙をともなったため息。

 

この調性から筆舌につくせない美しさの中で心と聴覚が完全に解き放たれた喜びを感じる基調をなす C dur へ還ってゆく(注15)

以上のことで Tempo - 韻律 - 調的性格論 が一致した演奏が成立したことになります。

資料7. 『チェルニー音楽を語る - ピアノ奏法 -』より

加えて、18世紀から19世紀にわたって演奏法に連続した流れがみられるということの一証明として言語の韻律に基づく奏法を上げることができます。例えば1787年に出版された Koch の『作曲の手びき』のなかで指摘された韻律に基づく拍節法が Czerny の『クラヴィーア奏法』にもそのまま踏襲されていることからもそのことがわかります[資料8参照](注16)

資料8. Heinlich Koch: 『作曲の手びき』, P274,P275

なお、この韻律法に基づく作曲・演奏に関しては L. Mozart も『ヴァイオリン奏法』の中で、強弱の拍のうち強拍、つまりアクセントのある拍はギリシア語のエンファシスを意味するもので、ラテン語でいえば、dictio つまり「語りかけるような」という意味になることを説いています[資料9参照](注17)。従って韻律に基づく作曲・演奏はこの点からしても「語りかけるように」演奏する必要があるのです。

資料9. 増訂新版『羅和辞典』より「dictio」の項

今回は二つのテーマ、Tempo と韻律法による正確な楽譜の読み取り方を検討してまいりましたが、以上に見ましたように或る楽曲のテーマを資料に基づいて可能な限り正しく捉えることによって、あわせて他の様々な要素も正確に捉えられ、演奏が楽譜に対して正しく行われ得ることが理解されたと思います。なお、参考までに申し上げれば、このような18世紀的体系に基づく演奏法は18世紀末から20世紀冒頭まで一部の人によって継承されていたと思われます。例えば Brahms は Beethoven や Schubert、Czerny 達の時代のウィーンの演奏法を身につけていた師の E. Marxsen からこの奏法を受け継ぎ、それを弟子や知人に伝えたと考えられるわけで、このことは実際に Brahms から教えを受けたビアニストが残した Brahms の作品の演奏を通じてはっきりと捉えられますし(注18)、はじめの aposiopesis のところで聴いていただきました実際の響きからもそれは捉えられたと思います。おそらく、結論的に申し上げれば、Chopin から Brahms 位まで、18世紀演奏法を用いて弾くのが正しいと思われます。このように演奏者が楽譜を可能な限り正確に読むことによって、そこに内在している「表現」を人々の前に明らかにすることができ、同時に作曲家の生きた時代の体系を、そしてそれを支える歴史の表現を聴衆に提示することができるのです。ではひとつひとつの時代の体系を支える、またそれを超える「歴史」というものの精神の本質は何であるのかを次に考え、そしてもう一度そこから Schubert を捉えてみたいと思います。

― 2 ―

Schubert の後期・晩年の作品の中に、先ほどの aposiopesis にみられますように、18世紀的というかむしろバロック的修辞法に基づく表現が顔を出し、それによって独特の響きの世界を作り上げているのが判ります。もちろん、こうした作曲技法の変化は作曲家の内的経験に基づくものであることも既に触れましたが、ここで再び Schubert の作曲法の問題に戻ってその特色について考え、最後に改めて Schubert の内的世界の問題に帰って全体をまとめます。

まず、aposiopesis に関連する修辞的技法のひとつであります、いわゆる「古様式」と Schubert の関係についてですが、これには Schubert がいわゆる古様式をどのように用いたかについて、1997年に出版された Schubert Lexicon の説明から見てゆくのが便利であると思われます。

彼は古様式を一方では初期の多数の小さな教会作品の中で様式を学ぶための筆写として使い、他方ではラメントバスや、三位一体の象徴や、ホモフォニーとユニゾンの、あるいはア・カペラ作曲法のような様式上の手段に用いた(注19)

ところで、この Stile antico =古様式と呼ばれる技法は基本的には二元論的世界の構造に対応するもので、現実の世界に対するこれを超えたもの、あるいは人間の世界に対する神の世界を表現するために追求された技法であるといえます。この技法が用いられた場合、それはつまり、ほぼ無条件に神の世界・超越的な世界が響きの中で表されたことを物語ることになります。バロック時代の新しい協奏風な、コンチェルタートな作曲法に対する中世以来の古い声楽曲の技法に基づく「古様式」として17・18世紀に好んで用いられたのがこの作法ですが、これをいま少し詳しく見ますと、その響きをとりあえず大きく二つのタイプに分けることができます。まず、第一のものは中世的厳格対位法と呼び得るもので、これは数秩序にウェイトを置きますので数的対位法として捉えられるものですが、何れにしても厳格対位法と、それから第二にはいわゆる古様式を指すもので、これは主としていま触れました厳格書法に対しての新しいタイプ、Monteverdi 達の時代に、Zarlino の説いた「われわれのマニエラ」と呼ばれる系列のもの、つまり Josquin Des Prez 等当時の音楽家達によって提唱された「oratio」(語るような)という言葉の内容表現、つまり修辞法に重きを置いた音楽及び1637年の Stefano Landi によるカンタービレな様式性を持つ「声楽ポリフォニー」です。今現在私達が普通に古様式といえば第一の方の中世的厳格様式、つまり Palestrina の作品に代表される様式をすぐに思い浮かべると思います。しかし、厳格対位法としての古様式を Palestrina に結びつける考え方は Monteverdi 達の時代にはありませんでした。彼らが古様式として考えていたのは中世末、ルネサンスの流れの中で形成された第二の方の「oratio」、つまり語るように演奏する音楽だったのです。これに対して第一のものに根ざす古様式の概念は特にトリエント公会議以降の教会音楽の刷新の中で発展させられ、やがて18世紀にまとめられて古典派の作曲家達にも多くの影響を与えることになった Fux の Gradus ad Parnassum の中で体系づけられて Palestrina の作品に見られる模範的対位法を指す、いわゆるパレストリーナ様式の代名詞として確立されました。Beethoven や Schubert に影響を与え、彼らに用いられたのもこの手法でした。Schubert もこの Fux の教本を学び、中世的厳格様式に基づいて初期作品から対位法はいうまでもなく、和声様式の、これも厳格な数的秩序を根幹としたホモフォニーによる書式の双方をふくめて古様式をとり入れています。但し、古様式の用い方の場合にも、このレポートのはじめにとりあげました aposiopesis の場合と同様の経過がみられ、やはり1820年頃から Schubert 独特の古様式の用いられ方が楽譜の中に浮かんできます。それはパレストリーナ様式に代表される本来の古様式から、Josquin や Monteverdi 達による新しいタイプの古様式への移行を意味するものでありますが、加えて Schubert の場合には、その生涯を通して手がけた Lied の作曲法との結びつきもみられ Monteverdi や Landi 達のカンタービレなポリフォニー、あるいは「歌う古様式」とでも呼んだらよいものが彼の晩年の作品を特色づけてゆくことになります。例えば B dur ソナタ D960 の第1楽章第1主題がこの「歌う古様式」の一例になりますが、初期の学習時代に親しんだパレストリーナ様式から晩年の「歌う古様式」への変化がどのような形でなされたかをまずは検討してみます。そのために譜例を3点あげます[譜例15-1,2,3参照]。譜例15-1は初期作品の D45 の Kyrie、譜例15-2は D209 のリート(吟遊詩人)、譜例15-3は B dur D960 の第1楽章主題です。

譜例15-1. シューベルト: 『キリエ』変ロ長調 D.45

出典: Franz Schubert's Werke, Serie 14, No.21 (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1884-97. Plate F.S. ?.) (Reprint: New York, Edwin F. Kalmus, Study Score 1051, n.d. (after 1933)) [http://www.imslp.org/]

譜例15-2. シューベルト: 歌曲『吟遊詩人』イ短調 D.209

出典: Franz Schubert's Werke, Serie XX: Sämtliche Lieder und Gesänge, No.98 (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1894-95. Plate F.S. 410.) [http://www.imslp.org/]

譜例15-3. シューベルト: ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調 D.960より 第1楽章第1主題

出典: Franz Schubert's Werke, Serie X, No.15 (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1888. Plate F.S. 107.) [http://www.imslp.org/]

この三つの楽語を通してみた場合、l)の D45 ではホモフォニックな厳格様式と対位法技法が組み合わされているのがはっきりします。また2)では、そのうちのひとつのホモフォニックな和声的表現法が、1)の場合とはかなり違った形で用いられているのが判ります。2)ではしかも、この部分が担っていると考えられますテキスト表現、つまり「死」への表現が不協和音を活用したこの独特の和声的厳格様式を Schubert に用いさせたと考えられます。3)は歌うメロディと和声的厳格書法の結合した「歌う古様式」ですが、こうした変化を追う過程で重要な作曲法として Schubert にも影響を与えたと考えられますいまひとつの18世紀的表現法が浮かび上がってきますが、それは1813年10月27日付の「ウィーン一般新聞」の中で、18世紀後半以降のドイツの思想に多大な影響を与えたイギリス人の Burke が訴えた「美と崇高な様式」に基づいてまとめられたと判断される、音楽表現法としての「崇高な様式」でした[資料10参照]。音楽に転用されたこの「崇高な様式」の特色はどのようなところにあるかといいますと、それは和声の流れを主体とするもので、一般的なメロディを主に音楽を形成してゆくものではなく、旋律を和声に従わせたり、オクターヴ跳躍を用いたりする作曲法、さらには対位法などの厳格な様式のことを含めて言う言葉です。これは Burke の『崇高と美の起源』の中で説かれた「美」「崇高」なものとの対照的捉え方の中から成立したものと判断されますが、両者の違いはまた「恐るべきもの」と「愛らしいもの」との相違のうちにも捉えられるものです[資科11参照](注20)

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資料10.(左) 「ウィーン一般新聞」の記事

資料11.(右) バーグ: 『崇高と美の起源』より p.91, 96, 97

このような、18世紀後半のドイツでも多くの人によって論じられて芸術表現(様式)上の大切な問題であった「崇高」と「美」の対応に依拠する音楽表現としての崇高な様式は結局「崇高なるものは我々の力を超えたものであり、我々を従わせる、世界を動かす力たる超越的神的なもの」であるという判断に結びつくものでした。つまり、世界を支配し秩序づけるロゴスとして捉えられる神的なものの表現こそが崇高な様式を導き出したのです。Schubert の作品ではありませんが、そのような神的秩序への讃美を歌った、Gellert の詩による Beethoven の歌曲『自然における神の栄光』はその典型的な一例であるといえますが、こうした歴史的流れの中で先ほどの譜例15-2の D209 をもう一度検討した場合、次のような経過を読みとることが出来ることになります。つまり、学習時代に親しんだパレストリーナ様式に代表される伝統的な厳格和声様式が1813年に発表された音楽における「崇高な様式」にみられる和声を主体とした作曲様式と結び付き、さらにそれにテキスト表現が加わって D209 は成立したという流れです。但し、これだけではまだ「歌う古様式」は成立したことにはなりません。この様式が成立するためにはもうひとつの大切な要素である、Joh. Seb. Bach との出会いについて触れてみる必要があります。

Schubert に与えた Bach 作品の影響については先ほどの事典、Schubert Lexicon の中でも取りあげられています。「彼は Bach と Händel を徹底的に研究し抜き、また非常に高く評価した」(注21)

上の記述 cis moll Fuga [譜例16参照]のテーマを用いての作品のところで、例えば晩年の有名な Lied 『影法師』 Der Doppelgänger の中で Joh. Seb. Bach の平均率つまり、”Das Wohltemperierte Klavier I“ の cis moll Fuga テーマがそのまま使用されています[譜例17参照]。もっともこのテーマ自体も対位法に基づいてまとめられた、これまた Bach における古様式=パレストリーナ様式の作例を担うもののひとつとして知られるものですが、Schubert は『影法師』の中でこれを和声的表現の中に組み込んでいることから、これはまた Schubert の崇高な様式と結びつくことによって新たな響きの世界を形成したものとして捉えることができます。またさらにこのテーマを曲全体にその基本形を繰り返して用いることによって自由なパッサカリアの形態を成立させたこと、つまり楽曲の全体を支配し、その響きの世界の全体を支える原理として用いたということから、このテーマを世界を支配し、秩序づけるロゴスとして表したであろうことが推定されます。この古様式の、また崇高な様式のロゴスとしての使用はもうひとつの作品 D950 の Agnus Dei にも見られます[譜例18参照]。この曲は古様式を使用しながら修辞的表現形式の Fuga としてやはり Bach の cis moll Fuga テーマを用いて作曲されましたが、ここで Schubert が Fuga を基にしてこの Agnus Dei をまとめたということ自体が、Agnus Dei も崇高な様式として、しかも Fuga という作法に特徴的な同一テーマの反復という点から cis moll テーマがその全体を秩序づけるロゴスとして働く Schubert 的古様式の一典型をなすものであることを告げています。つまり、こうした作品から感じられますことは、ますパレストリーナ的・中世的厳格対位法としての古様式の中に崇高な様式が溶け込み、さらにその全体が例えばひとつのメロディ、ないしテーマによって秩序づけられることによってそこにロゴスが響かせられることになったということです。しかも『影法師』の Bach によるテーマはロゴス、つまり秩序づけるものであると同時に「歌」、つまりテキストの内容を象徴的に「語り出すもの」として捉えることかできるものでもありますので、古様式と崇高な様式の融合の上に響くロゴスと同時にこの「語り出すもの」が一体化されて「歌う古様式」を成立させたと考えることができるのです。しかもその場合に、この cis moll テーマかいわゆる十字架音型として「死」を表す音型・Figurであった点が重要で、Schubert はこのテーマが Bach のいろいろな作品、例えば『マタイ受難曲』の中で、群衆がキリストの十字架刑を要求するシーンにあてはめられたように、十字架のキリストにおける「死」もしくは「死」そのものを表すものであることを理解していたと考えられます。もしそうでなければ、わざわざこのテーマ・音型を、十字架上で息をひきとったイエス・キリストを歌ったミサのテキストの Agnus Dei を響かせるテーマとしては用いなかったに違いないからです。つまり、この時期の Schubert にとって古様式にしろ崇高な様式にしろ、それは単なる様式化された作曲技法としての役割をはるかに越えてテキスト、言葉の内容を語り歌い出すための特別な手法を意味していたわけで、しかもそこでは「歌」そのもの全体を担う一本のメロディの形熊をとるテーマが「死」を根幹にした人間の存在ですとか、世界ですとかを秩序づける原理としてのロゴスの役割を果たすことによって「歌う古様式」は成立したといえるのです。

譜例16. バッハ: 平均律クラヴィーア曲集第1巻より 嬰ハ短調フーガ BWV849 冒頭

出典: Veb Deutscher Verlag für Musik Leipzig (Bestell-Nr.157, Einband H.S.Sanders, Gesamtherstellung von C.G.Röder, Leipzig III/18/2-13365, Lizenz-Nr.418-515/C 504/65)

譜例17. シューベルト: 歌曲集『白鳥の歌』D.957より 第13曲『影法師』ロ短調 冒頭

出典: Franz Schubert's Werke, Serie XX: Sämtliche Lieder und Gesänge, No.554-567 (pp.134–85) (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1894-95. Plate F.S. 920-933.) [http://www.imslp.org/]

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譜例18. シューベルト: ミサ曲第6番 D.950より Agnus Dei 冒頭

出典: Franz Schubert's Werke, Serie XIII: Messen, No.6 (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1887. Plate F.S. 156.) [http://www.imslp.org/]

一方、このような「歌う古様式」に位置づけられます B dur ソナタでは Bach の cis moll テーマと対応したゆっくりと弧を描くテーマが十字架を超えた静謐なものを歌い出しています。おそらくこの静かに流れる歌は、このソナタで用いられた調性・B dur の性格と分かち難いものでもあると考えられますので、B dur にはどのような意味が含まれているのかを次に再度 Kelletat を用いて調べます。「晴れやかな愛、良い心、希望、はるかなる世界へのあこがれ」(注22)

今の調的性格論から出された B dur を特色づける「よりよい世界」を意味する調性にふさわしく、D960 もその全体を治めるテーマによって「死」を超えた「救い」あるいは魂の安らぎの世界を表現することになったのです。

このように Schubert は「死」と「救い」の問題を作品の中で扱いながらも、それを伝統的な教会音楽ですとか教会の考えですとかの枠を越え、教会から離れた自由な立場にも立ちなから人間存在への間いかけとして表現したといえます。では次に古様式と、崇高な様式の融合の上に語り出された「歌う古様式」の中で響く、世界を支配し秩序づけるロゴスの問題を、若き日の Schubert が手にし影響を受けたローマ皇帝 Marcus Aurelius の自著『自省録』の中から例を引き、改めて Schubert の精神性を捉えてみます。

Marcus Aurelius が自省録において提唱したことは、私達の人生において起こる出来事に対して浮かび上がる様々な喜び悲しみに一切心を動かされない、超越的平静な心で対するべきであり、そのために世界を治めるロゴスに耳傾けるべきであるという、ヘラクレイトスの流れに汲むストア哲学の精神です。Marcus Aurelius を Schubert か学んだという記録か彼の日記に遺されています。資料12の彼の日記(注23)の矢印のところが Marcus Aurelius の記述をそのまま引用したところです。Aurelius の言葉「人生はちょうど円形劇場で演じられるようなものだ」というのがその内容です。これに関しては後に改めて触れます。が、この世に対する諦めを強調したこの言葉の中に、弱冠19歳の若き日に在りながらも、後の1820年代に訪れ来ます苦悩を予感するかのように平常心、締念を心に備えて日々に対するのが正しい生き方であるとする彼自身の在り方そのものが既に提示されています。なお、Marcus Aurelius の特にロゴスと関係のある実際の文章は資料13にあります(注24)

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資料12. Schubert, Die Dokumente seines Lebens, S.49

資料13. マルクス・アウレリウス: 『自省録』より p.171, 174, 296, 321, 323, 473

上の「円形劇場…」という記述からは結局人間の存在というものは劇場で見られるドラマの役柄のひとつひとつを個々人か演じているに過ぎないという考え方に結びつきます。そこから、だから与えられた役柄、つまりこれは別の言葉でいえば神によって与えられた人間各自の持ち分、即ち自己の役割を正しく務め、そうして一切を神の摂理としてのロゴスの支配に委ね、何事にも心を動かされず平常心を保って生きるという超越的な平常心を保つべきだというストア派哲学の根本の精神である「諦念」が生まれてくるのです。Marcus Aurelius はまた、この著書の中で何度かギリシア最大の哲学者達、ソクラテスやプラトン、ヘラクレイトスなどの言葉を使って記述しています。

ソクラテス、プラトン、ヘラクレイトスなどのギリシアの哲学者達は常に自分たちの存在しているこの世界の原理(アルケー)を追いもとめ、独自の世界観をくり広げながら哲学の歴史を築き上げました。そのギリシア的世界像を Marcus Aurelius も見つめながら同時にこの『自省録』の中で人生とは何であるのか、私達の存在はどのように秩序づけられているのか、ということ、しかもそれを生涯の多くの時間をローマ帝国に侵入してくる、いわゆる蛮族との戦いの中で過ごし、存在のはかなさを日々目にする生活の中で、この世界を越えて一切を秩序づけ、魂に安らぎをもたらすに違いないロゴスを追い求め、自らも平常心を保つべくロゴスを支えに生きるという、自らの日々の存在状況の中から深く捉えていったのでした。このストア派最大の哲学者のひとりと評価される Marcus Aurelius の影響を同じようにナポレオン戦争時代のウィーンの不安定な社会に生き、しかも徐々に、また確実に迫り来る自らの死を日々目前にしながら生きた Schubert がいかに強く受けているかは彼の日記ばかりでなく、その作品にも表れています。例えば先ほどの「円形劇場」における役柄という Marcus Aurelius の記述はソナタ B dur の第4楽章の冒頭に表れていると考えられます。この楽章の冒頭で鳴らされるGの音で舞台の幕が開き、そして道化師のおどけた役、あるいは舞台を飾る人々の姿が現れてくる場面がここに描写されているようです。また、このような作り方をしている Schubert の他の作品では Impromptu Op.90-1 の冒頭が同一です[譜例19参照]。これもまたGの音で幕がひらいてドラマがはじまるのです。そして194小節最後の矢印の左手のGを二回打つことでその幕を閉じる様子も描写されています。またさらに このような書き方をしている作品としては Beethoven の『エロイカ』、『フィデリオ』や『コリオラン』、あるいは彼に先立つ Mozart の『ドン・ショヴァンニ』等をあげることができます[譜例20のエロイカ参照]。これらの作品に用いられた共通の表現法としての D960 第4楽章冒頭の開始音は、特に Beethoven の第三・エロイカが、バレエ曲『プロメテウスの創造物』を交響曲化したものであることからも判りますように、これらの作品の何れもが追求している人間の演じ描く舞台の情景と深く結びついているか、もしくはそれと同様の考え方を表してドラマの開幕を告げるものでもあるといえます。しかもその舞台を、姿の見えない演出家のように操っているもの、それこそがこの世界を支配しているロゴスなのです。ですから先ほどのソナタ B dur 第4楽章や Op.90-1、エロイカのような形で作曲されている曲はすべて「ロゴス」に貫かれている音楽として捉えることができます。このロゴスは、先ほど崇高な様式のところで触れましたように、「我々の力を越えたものであり、我々を従わせる、世界を動かす力たる超越的なもの」でありますので、ロゴスによって私達は私達自身の内的な魂、つまりアフェクトを強く揺さぶられ、自己の存在をおびやかすものと戦いつつ魂を浄化されて「諦念」へと向けられることになるのです。この「円形劇場」と「ロゴス」と「諦念」が直接反映された Schubert 自身の自作の詩があります。”Der Geist der Welt” と題された詩がそれです。

譜例19. シューベルト: 4つの即興曲 D.899(Op.90)より 第1曲ハ短調 冒頭

出典: Franz Schubert's Werke, Serie XI (pp.28–57), No.2 (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1888. Plate F.S. 109.) [http://www.imslp.org/]

譜例20. ベートーヴェン: 交響曲第3番『エロイカ』変ホ長調 Op.55 (ピアノ版) 第4楽章 11小節目~

出典: 自作

Der Geist der Welt, 世界の霊、
Laßt sie mir im ihren Wahn, 任せておきなされ世界のことはこのわしに
Spricht der Geist der Welt, その迷妄の道のまま、とつぶやくのだ世界の霊が
Er ists, der im schwanken Kahn 彼はさよう、揺れる小舟に在って
so sie mir erhält. かくも世界はわしを慈しんでいるのじゃ。
   
Laßt sie rennen, jagen nur 駆け駆りたたせておけばよいのだ、世界を
Hin noch einem fernen Ziel. はるかなる終極に向かって、
Glauben viel, beweisen viel 信仰を篤くし、多くを証しさせておけばよいのだ
Auf der dunkeln Spur. 幽暗な軌跡のうえで。
   
Nichts ist wahr いかなるものとて真実でありはしないのだ、
von allen dem, それら一切のもののなかで
Doch ist kein verlust; にもかかわらず失われるものとてない、
Menschlich ist ihr 人間的なるもの、それこそがその
Weltsystem. 世界のシステムなのだ
Göttlich, bin ich’s mir bewußt. 神的なるもの、それこそがわがものなることをわしゃわきまえておるのじゃが。

この詩は1820年にどこかの食堂に入って朝食の折りに献立表の裏に即興的に書きつけられました。まずこの詩の内容ですが、はじめの「世界の霊」の「霊」は、これはこの世界を支配するロゴスです。「この世界の現実に真実はない」ということはつまり常に世界を超越したところ、神の在ります永遠なる世界に真実があり、その真実が現実の世界に介入してくるときに「霊」つまり神のロゴスの形をとると考えられます。また「駆け駆りたたせておけばよいのだ、世界を」という言葉は先ほどの Marcus Aurelius の「円形劇場」にみられる神の操る人生の舞台という考えと対応しながらも、神的なロゴスから遠く在っていたずらに世界自身の、人間自身の利得を求めて狂い騒ぐ、人間のロゴスに支配されたこの世の様を描き出しています。1820年といえば、はじめに触れましたように友人 Senn の逮捕、自分の不治の病、社会的現象としてウィーンに流れ込んだナポレオン戦争、それらの神の送りつけた出来事によって Schubert 自身が不安定な生活を強いられた時期で、この神の送りつけた自己の命運を Schubert は深く意識していたと考えられます。あわせて早くから親しんだ Marcus Aurelius の「ロゴス」と「諦念」が Schubert の中で見事に昇華されて、日々の思索の中でロゴスに傾聴していた Schubert の姿を鮮明に浮かび上がらせることになったのです。加えてこの、”Der Geist der Welt“ は汎神論の理念とも結びついていることが Schubert 辞典の中で明らかにされています。まずこの Lexikon の特に重要なところを拾い出してみます。

 
ギリシアでいわれていた慣用句 "個と全体、あるいは一にして全" "万有における神性" は人生の享楽と同じ意味で使われるようになったことによって明らかにあまりにも意味が変わってしまっていた。

 

Schubert は汎神論を確かに彼のカトリック教育に基づいて変わった混合世界観に変化させて捉えていた(注25)

ここに見られます、ギリシアでいわれていた償用句「個と全体」あるいは「一にして全」「万有における神性」という汎神論の理念はキリスト教の三位一体論の理念とは異なり、万有の中に神が宿るという日本で言いますところのアニミズムに通ずるものがあるようです。つまりこの理念は天上的な世界と深く結びついているのです。そして最後のところの「Schubert はこの汎神論を確かに彼のカトリック教育に基づいて変わった混合世界観に変化させて捉えていた」というところですが、彼はコンヴィクト時代のカトリック教会の教えと共に Marcus Aurelius 等を学んでいたことにあわせて彼自身に訪れた出来事の中で常にロゴスを捉え、それを劇場舞台として Op.90-1 や D960 の第4楽章に書き表したこと、また厳格様式に基づいた Bach のテーマを自作のリート『影法師』や D950 の Es dur のミサの Agnus Dei に使用して、これもまたロゴスとして自己とキリスト教の結びつきを私達に示して、Beethoven にも共通するように、当時の自由な宗教観・神学に立って、キリスト教の教えに沿いながらもなお自由な神観をとったのでした。つまりアフェクトを揺さぶるものとしてのロゴスの訪れの中で常に自己の揺れ動く感情と戦いながら作品を書き続け、魂を天上の世界に向かわせ昇華させたことがこの ”Der Geist der Welt” の中に読みとれ、それが直接汎神論の理念に結びついたといえるのです。これがキリスト教と哲学思想とあわせて織り上げた Schubert 的混合世界観としての汎神論です。この汎神論、つまりロゴスを見据えつつ魂を昇華させ、天上の世界に向かうという、いわゆるカタルシスの理念にも結びつく魂の浄化は先ほどの Marcus Aurelius の「諦念」という境地と同じであることが判りますし、Schubert と同時期に、つまり1820年前後からその傾向を深くした Beethoven 晩年のプラトン主義に根ざした魂の昇華の表現にも一致するものです。と共に、Mozart や Beethoven、Schubert の世界観の根底をなすものとして、18世紀後半のドイツ思想・芸術論の中で広く取り上げられた悲劇のカタルシスにも根を下ろすもので、まさにこのような昇華されてゆく魂こそが、ソナタ B dur 第1楽章のテーマの「歌う古様式」を結果させたのです。以上の「歌う古様式」と「締念」との結びつきに立ってもう一度テーマを捉えます。このテーマの第1草稿の譜例を見ますと[譜例21参照]、2小節目の1拍目にアクセントかついています。Schubertは第1案ではこのテーマをアクセントをもってかなり強い表情を含んだテーマとして構想していたであろうことがここから読みとれます。しかし最終的な譜面ではこのアクセントは消えています。このことから考えられることはアクセントによるアフェクトの激しい刺激にもまして、静かに弧を描いて流れるメロディによって魂の昇華の形をとる諦念を歌い出すことに重点が置かれることになったということです。

譜例21. シューベルト: ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調 D.960より 第1楽章第1主題の第1草稿

出典: 自作

一方「諦念」という境地は「あきらめ」「何ものも求めない」ということなのでこれはまたすべてに超え出た平常心としての「中庸な」という意味に解釈できます。激しさを昇華した上での平静さ、中庸さ、こういった意識が諦念です。第1楽章の表示は Molto Moderato ですが、この Moderato というのは Tempo 表示に用いられる用語としては本来独立した言葉ではなく副次的な言葉として使用されるもので、例えば Allegro moderato がそれに当たります。この副次的な言葉がここでは独立して用いられているのですが、こうした用法に関して Türk が1789年の "Klavierschule"の中で指摘したのは、こうした用法の場合にそれは曲の Charakter を表すためなのだ、ということでした[資料14参照](注26)。この moderato には広く「中庸に」という意味で理解されていますが、これは先ほどの「諦念」と結びついた上での「中庸」と解釈されます。またさらに、音楽的・発想の用語としては、これも18世紀の資料のひとつ、1732年の Walther の音楽辞典に「強すぎず、弱すぎず、速すぎず、あまりにも遅すぎず、思慮深く」(注27)とありますので、このことと合わせて中庸さを考えたときに、あらゆる激しいアフェクトを超えたところの昇華した平静な響きでもってというテーマが Schubert の中ではっきり浮かび上がってきた、それが「諦念」で彩られたテーマであり、それが Moderato の語によって表示されることになったと判断できるのです。つまり、以上のことを要約すれば古様式と合わせて崇高な様式の中に表れて全体を貫き支配していたもの、「ロゴス」としての世界を支配し秩序づける超越的な力が『影法師』の中でテキストを「語り出させ」、そしてそれが歌う古様式を形成させることになった、と共にその語り出されたロゴスを演奏者が自己の激しいアフェクト的世界を超え出ながら魂を昇華させ、「諦念」の境地に至って天上の世界を響かせたときに、初めてこの「歌う古様式」は Schubert の精神の陰影を私たちに提示することになるのです。

資料14. D. G. Türk: "Klavierschule", S110

以上、作曲上の様式がまず第一に存在したのではなく、彼自身の精神の変化、深まりが彼独特の様式を生み出させることになった Schubert の世界とそれを響かせる18世紀的演奏法の一端について述べさせていただきました。

臼井雅美 (1998年・学部卒・ピアノ科)

 

 

(注)

  1. 本稿の発表に先立って前日に、発表者自身によって演奏された。従って本稿は Schubert の響きの世界を、演奏と併せて捉えるべく考えられたものである。響きそのものと深く呼応した Schubert の世界像の一端を文字によって表すのがその主たる目的である。
  2. 『シューベルトの手紙』實吉晴夫訳、メタモル出版、1997年。
  3. エルネスト・グラッシ『芸術と神話』榎本久彦訳、法政大学出版局、1990年。第3章「テクネーと芸術」参照。 たとえば以下の記述 ― 質料は常に、人間が現実の一つの段階である秩序と形式の中に没してしまわないとき、初めて秩序づけられていない質料として現れてくる、ということを意味するにすぎない。したがって、一般に理解されているように、ます最初に素材、質料があって、そこからそれを秩序づける必要性が生じてくる、というのではなく、あるものは、それを新しいやり方で秩序づける必要性がでてくる場合に初めて〈秩序づけられていないもの〉、と見えるのである。
  4. J. J. Quantz: 『フルート奏法試論 下巻 - バロック音楽演奏の原理 -』、石原利矩 井本晌二 共訳、シンフォニア、97頁。
  5. 同上、99頁。
  6. C. Ph. E. Bach: 『クラヴィアを奏するための正しい技に関する試論』、東川清一訳、全音楽譜出版社、1963年、122頁。
  7. Leopold Mozart: 『ヴァイオリンの基礎教程に関する試論』、塚原哲夫訳、全音楽譜出版社、1974年、189頁。
  8. 同上、189頁。
  9. Carl Czerny の同書は『チェルニー音楽を語る - ピアノ奏法 -』 丸山桂介訳として、東京音楽大学音楽学第2 研究室より出版、1999(I)、2000年(II)。
  10. 同上(I)、56頁。
  11. Dabid Zinman指揮、へートーヴェン交響曲全集ARTE NOVA Classics 74321 65410 2
  12. H. Chr. Koch: "Musikalisches Lexicon", 1802
  13. Encyclopädie der gesammten musikalischen Wissenschaften, 1835, S381.
  14. Kelletat: "Zur musikalischen Temperatur" Bd.II Wiener Klassik, 1982, Merseburger, S122.
  15. Kelletat: 注14参照、106,107頁。
  16. H. Chr. Koch: 『作曲の手びき』, 1787, p274-275
  17. 田中秀央編: 増訂新版『羅和辞典』より
  18. Brahms 作品の演奏に関してはPupils of Clara Schumann CD VI, Pearl, GEMM CD 9909を参照。
  19. Schubert Lexicon, hrsg. Von Ernst Hilmar und Margret Jestremski, Akademische Druck-u. Verlagsanstalt, Graz, 1997, S446.
  20. バーグ: 『崇高と美の起源』鍋島能成訳、理想社、91,96,97の各頁。
  21. Schubert Lexicon, 前出(注19)、26頁。
  22. Kelletat: 前出(注14)、94,95頁。
  23. Schubert, Die Dokumente seines Lebens, von 0.E.Deutsch, Bärenreiter, Kassel, 1964, S49.
  24. マルクス・アウレリウス: 『自省録』水地宗明著、法律文化社、1990年、171,174,296,321,323,473の各頁。
  25. Schubert Lexicon, 前出(注19)、95頁。
  26. D. G. Türk: "Klavierschule", 1789, Faksimile, 1962, Sl10.
  27. J. G. Walther: "Musicalisches Lexicon", 1732, S408.

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) 本論文は、1999年5月に、東京音楽大学 Jスタジオにおいて行われた第6回公開ゼミナール「音楽のことば」にて発表された。

前日に行われたシューベルトのソナタD960の演奏についてなされた講義の記録である。

尚、演奏にはスタンウェイコンサートピアノが使用され、調性的性格を明確にするため、シューベルトが使ったと思われる古典調律(キルンベルガー第2番)が用いられた(調律: 山中滋啓)。

全曲ノンペダル演奏、ライブ録音。

発表中に行われた論文の例題曲、ショパン プレリュード op28ー4 、バッハ プレリュード f mollの演奏音源は収録されていない。