丸山桂介研究室-バッハ講義

丸山桂介研究室 - バッハ講義 -

連載: バッハ、ルネサンスと古典 - バッハへの道・参考文献を繙く -

1. はじめに

バッハへのアプローチは、バッハというひとりの人間の手によってひとつの「作品」としてまとめ上げられた「音楽」への問いによって拓かれる。

 

即ちバッハを、バッハという特定の個人として眺めるのではなく、バッハという「個」を支え、その「個」によって模索された普く在りと在る「人間」の在り方、人としての在るべき姿についての思索が楽譜という音の「ことば」によって書き表されたのが「バッハの作品」であって、その響きはいかなる意味においても単なる感覚の喜びを充たすためのものではない。バッハが生涯をかけて追求した「人間」としての在る姿は概略次のような点から捉え得るであろう。

 
  1. 「音楽」とはどのような原理によって「音楽」と呼び得る響く「世界」を聴く人に提示し得るのか ― 音楽とは人間の広範な精神活動に根ざすものであり、本質的にはこの精神活動への問に直接している。ここでは、広大な人間の精神活動を、或る特定の条件下になされたものと判断し、その特定の条件を満たすものをここで言う「音楽」として捉えることにする。端的に言って、その条件下における精神活動はバッハが生き活動した西欧の17・18世紀に特定される。
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  3. 誰であれ、人間は自らの生きた「時代」の外に抜け出ることは出来ない。思索の中で、無論自己の時代の枠を超えることは出来るし、ときに、超えることが求められもする。だがそれにもかかわらず人間は「時代」という「歴史」に属し、歴史によってその在ることを支えられている。と同時に、このことはひとり「人間」にのみあてはまることではなく、当の「歴史」そのものがその「歴史」を形成している「歴史」という、人間の存在の総体的活動の所産から抜け出て在るものではないことを示している。人間は歴史を形成し、歴史は人間を形作る。このことを要約して言うならば、人間=歴史は即ち「時間」と呼ばれる宇宙的運動の中に在り、生きるものだということであって、この「時間」が或るときには「歴史」を成し、また別のときには音の響きとして「音楽」=「作品」としてその姿を現わすのである。音楽が時間の芸術であると言われるとき、その時間とは根本的にこの宇宙的運動=歴史の時間それ自身として把握されるものである。当然のことながら、人間・歴史・音楽の作品……というものは「時間」とは何かという問いから離れて存在するものではない。
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  5. バッハが滞在した歴史上の時代、西欧の17・18世紀を形成した要因には種々の出来事が挙げられるが、しかしバッハの「音楽」という観点からした場合に第一に考えられるのはルネサンスという人間の精神活動に深く関わる事象であり、また同時に、年代的にここでいうルネサンス=フィレンツェを中心として展開されたイタリアにおけるルネサンスと並行した宗教改革である。宗教改革はキリスト教と呼ばれる「教会」の枠内での改革運動ではあるが、同時にその運動の根底の一潮流を成したキリスト教の根源に立ち帰り、これを新たにしようとする主張は広い意味でのルネサンスと呼ばれる精神活動に相応するものである。
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  7. バッハとその作品に関する音楽研究の領域における研究成果を視野に収めなければバッハへのアプローチは不可能である。その成果としてはいま概略次の点を押えておけば良いであろう。
       
    • バッハ作品の成立年代に関する研究 ― 20世紀の中葉にバッハの作品が成立した年代を巡る研究がひとつの大きな成果をあげ、バッハの創作活動の年代的流れが捉えられることになった。この研究の中心に立ったのがドイツの研究者アルフレート・デュル(Alfred Dürr)とゲオルク・フォン・ダーデルセン(Georg von Dadelsen)である。
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    • 20世紀の後半は、この二人の研究成果が更に他の研究者の手によって深められ、バッハ作品の年代的研究はほぼまとまりを見せたと言える。
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    • 21世紀に入って見られる研究とその成果は、バッハ作品の成立の基を成した精神活動の領域からのものであり、特にバッハが属していたキリスト教会の考え方とバッハ作品の関係についての研究が目にとまる。この領域では明らかにバッハのカンタータ、教会の礼拝式と密接している教会用のカンタータのテキストとその作曲法の関係等が主要なテーマとなっている。
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  9. バッハ研究の領域で遅れをとっているのは、主として音楽以外の領域をなしている学問、例えば数学や哲学、あるいは言語学等の学問とバッハとの結びつきに関する問題である。その一例は、古代ギリシアからヨーロッパ中世を経てバッハの時代にも受け継がれたピュタゴラス派の宇宙観に基づく数と宇宙構造の関係であり、これがバッハ作品の中にどのように滲透していたかの研究である。また、バッハ等の作曲・演奏に多くの影響を与えたとされる修辞・弁論術との関係についても今後の研究をまたねばならない。
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以上のような状況の中にバッハの「音楽」を置いて眺めるためには多くの専門的知識が要求される。例えばバッハ研究の文献を読むためにはドイツ語の能力・知識が不可欠であるが、しかし他方からすればバッハの「音楽」に迫るための異なる道が存在しない訳ではなく、ここでは研究者のための研究領域を巡るガイドという方途をとらずに、むしろ一般的広範な視野に立ってバッハの「音楽」の根底をなした諸問題に関するアプローチを通じてバッハの立った思想的・歴史的地平について検討を加えてみることにする。その際に、必要な資料は原則として日本語で読めるものとする。

 

それでは次回から、具体的にバッハの創作のアトリエを成した歴史的事柄について考えてみることにする。

 

(2016年5月3日)